スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

第122回定期演奏会、その4

 シューマンといえばピアノ曲や歌曲がすこぶる有名でかつ人気が高く、また室内楽曲や交響曲もよくコンサートのプログラムに取り上げられます。初期こそ専らピアノ曲ばかりを手掛けていた彼でしたが、その不幸にも長くない人生の中で広範な分野をカバーする創作を行えたのはシューマンの音楽的天恵の賜物と言えましょう。しかしその中にあって、彼の合唱曲というといまいちピンと来ない嫌いもあります。『流浪の民』が飛び抜けて有名ではありますが、それ以外で耳にすることはほとんどないように思えます。
 シューマンの作品全体を俯瞰すると合唱のために書かれた曲というのは意外とたくさんあって、最も早いもので『男声合唱のための6つの歌 Op.33』という作品があり、その後もコンスタントに合唱を含む作品が生み出されているのが分かります。特にOp.50のオラトリオ『楽園とぺリ』は彼の名声を一気に押し上げた出世作と言われ、また晩年には『ミサ・サクラ』や『レクイエム 変ニ長調 Op.148』といった重要な宗教曲を作っており、思っていた以上にシューマンと合唱の関係は深いものがあるようです。
 『4つの二重合唱曲 Op.141』は彼がドレスデンで暮らしていた1849年に作曲されました。当時のドレスデンは音楽的に環境の良い場所とは言い難く、芸術家は王に雇われる立場として宮廷画家は庇護の対象であったにもかかわらず、音楽家は冷遇を受け、そんな音楽の行き届かない土地で一般民衆からの視線も冷ややかなものだったそうです。またこの頃彼は精神障害にも悩まされており、時として作曲の筆を中断せねばならない程であったといいます。しかしそのような境遇に置かれても彼の創作はより深みを増し、多くの分野にわたって今日傑作と評され愛奏される作品を生み出しています。
 ドレスデンに来てからシューマンはフェルディナント・ヒラーという音楽家と知り合い、友人としての関係を築きます。しかし彼がデュッセルドルフへ離れることになり、友の職を後継する形で、シューマンは地元の合唱団の指揮者に就任します。これはシューマンにとって自作を発表する場を得たことでもあったため、これをきっかけとして以降多くの合唱曲が手掛けられることになりました。『4つの二重合唱曲 Op.141』もその一環で書かれたものでしょう。今回演奏されるのは第1曲『星に寄す』と第2曲『おぼろな光』。シューマンの和声感覚がここまで瑞々しく彩り豊かなものだったのかと改めて認識させられるのは、合唱ならではの厳かで清澄な響きがあってこその再発見です。ドレスデン時代のシューマンはバッハの作品を深く研究し、その成果としていくつかの作品を残していますが、もちろんのことバッハのカンタータやオラトリオなどの合唱曲も研究したことでしょう。この『二重合唱曲』を聴いていると、ここにもそうした研究成果が反映されているのかも知れないと思わせられます。

《私の好きな録音⑫》
 京都大学の横にアンスティチュ・フランセ関西‐京都(旧関西日仏学館)という建物があります。毎年の春になるとそこで「京都フランス音楽アカデミー」が2週間程度の期間にわたって開催され、フランスの高名な音楽家が京都へやって来て受講生に対してレッスンをします。自分が見学させてもらったピアノのレッスンでは、チェリビダッケについて教授が触れており、その教授は「前もって自分の決めておいたテンポで常に演奏するのが正しい訳ではない。曲のテンポというものは演奏する場所によって、いつ演奏するかによって、そうした色々な条件の中で刻々と自ずから変化するものだ」みたいなことをチェリビダッケが語っていると言っておられました。「なるほど」と思いましたが、そこで止せばいいのについうっかり(受講生でもないのに)「フルトヴェングラーも似たようなことを言ってますね」と口を滑らせたのがきっかけで、その後はフルトヴェングラーの話で教授がとうとうと話を始めお互いに盛り上がりました。受講生の方は何の話かさっぱりだったみたいでしたが。それよりも驚いたのは通訳の方がチェリビダッケの名前をご存知なかったようで、ああいう場において人並み以上に音楽に携わる人間なら知らぬはずもないと考えていただけにビックリしました。それともこれがジェネレーションギャップなのでしょうか。とは言え、その受講生や通訳さんよりも私の方が若かったのですけどね。

 フルトヴェングラーで最初に聴いたのはブラームスの交響曲第1番でした。これは以前の記事でも書いた通り、凄絶な演奏です。この「凄絶」という言葉を使う時に思い起こされるのは清少納言の『枕草子』で、よく古文単語の辞書では「凄まじ」の用例として「すさまじきものにして見る人もなき月の」という文が引かれます。「殺風景なものとして見る人もない(冬の)月が」という訳になるのですが、この"冬の月"のイメージがどうも自分の中で呼び起こされます。肌をも切るような張り詰めた冷たい空気、寒々として透徹した視界を照らす月の光、そこにあるのは人間的温もりではなく異次元の妖気。こんなイメージがある時、自分の中で「凄絶」という言葉が浮かびます。
 彼の録音は交響曲なんかも当然の事ながら素晴らしいのですが、深く感心させられるのは協奏曲の伴奏を受け持った際の指揮ぶりです。例えばシューマンのチェロ協奏曲。チェロの独奏を務めるティボール・デ・マヒュラはフルトヴェングラー時代のベルリンフィルの第1ソロ・チェリストで、戦後は長きにわたってコンセルトヘボウの首席チェロ奏者を務めたチェリストです。彼の滑らかで潤いのある音色で泉の流れのように奏でられるソロも絶品なのですが、フルトヴェングラーの指揮もまた、伴奏という域を越えて高らかに歌い上げてきます。第一主題が終わってからのトゥッティでは激しく急くように揺さぶり、第二主題の合いの手でも影に潜まない存在感で音楽全体を立体的に浮き彫りにしてみせます。第三楽章などはチェロ独奏付き交響曲でも聴いているような気分です。独奏に寄り添いつつもフルヴェン節の主張を隠さない、それでいながら結果としては両者が共に形作った音楽であるというのが不思議なところです。
 同じことは伝説的ピアニストのエドウィン・フィッシャーとのライブ録音であるブラームスのピアノ協奏曲第2番にも言えますが、こちらの方がより独奏とオーケストラがアグレッシヴな関係です。「巨匠対巨匠」という構図だけで痺れてくる次第ですが、演奏内容も両者の一進一退の、丁々発止のせめぎ合いのようなものを感じます。別にいがみ合っているのではないですが、お互いがお互いの演奏に感化されて「これでどうだ!」「それならこれは!」と鳴らし合っているような演奏です。聴けばお分かり頂けると思います。そしてやはり、フィッシャーはフィッシャーの音楽で、フルヴェンはフルヴェンの音楽で鳴らし合うという、火花が出るくらいスリリングなことをしているにもかかわらず、音楽は破綻しません。それどころか、むしろこの曲の巨大なシルエットが最もくっきりと輪郭を顕わにした最上の名演なのです。ここにおける二大巨匠は、お互いが慣れ合って歩み寄っているのではなく、二人が同じ場所に向かって肩を並べて歩いているだけなのです。ここまでやってようやくブラームスの意図した「ピアノ独奏付き交響曲」としての性格が引き出されたように感じられます。そもそもオーケストラの比重の大きな曲ということもありますが、それにしても管弦楽の何と雄弁な語り口であることか。これはフルトヴェングラーが指揮しているからこそで、同時にピアノがエドウィン・フィッシャーくらいでないと出来ないことなのかも知れませんね。タイムマシンが発明されたら過去に遡ってこの現場に行きたいです。

第122回定期演奏会、その3

 ピアノ学習者にとってバッハの『インヴェンションとシンフォニア』は非常に馴染み深い名前だと思いますが、大体この段階を経ると次に手を付けるのが『平均律クラヴィーア曲集』になります。バッハより前の時代には鍵盤楽器の調律法がまだ発達しておらず、調律を変えないまま違う調を弾くと違和感が発生するという問題があったのですが、平均律に代表される調律法の改善により、同じ調律のまま異なる調を弾いても耳に付くほどの違和感が出なくなりました。この曲集はそうした、どのような調でも演奏可能な鍵盤楽器を念頭に置いて、全24調を網羅して作られているものです。それぞれの調に「前奏曲とフーガ」がセットになっており、今回演奏される第1巻第21番変ロ長調にも「前奏曲」と「フーガ」があります。軽やかなに駆け抜けるような前奏曲に続いて、愉快かつ安定した足取りのフーガが奏される、曲集の中でも愛されている作品です。
 ショパンの『練習曲』については以前の記事でも触れました。曲集中には『革命』などの愛称が付されているものも多くあり、それは曲の与える印象をそのまま言葉にしたものや、曲の特徴を端的に表したものになっています。第5番『黒鍵』はその名が示すように、右手が黒鍵以外を弾かないという少々変わった練習曲です。ショパン自身はこの曲をあまり顧みなかったといわれていますが、煌めくような右手のパッセージと愛らしく跳ねる左手の和音、その両者が生み出す魅力には捨て難いものがあります。ちなみに右手はほぼ全て黒鍵を弾くのですが、終わり近くなってからたった一度だけ白鍵を弾きます。
 バラード第3番についても第121回の定期演奏会特集で詳しく書いたと思います。4曲あるバラードの中でもこの第3番は全編が幸福な情緒に溢れ、湧き出す歓喜が最後まで持続する、長調で終わる唯一のバラードです。他はどれも悲嘆や激情や諦観の中、短調で終わります。第2番はヘ長調なのに最後はイ短調で終止します。ですから余計に第3番の喜ばしい雰囲気が輝きを増しているのだと思います。

《私の好きな録音⑪》
 去年の夏頃に存在を知った音楽家がいます。ヴァイオリニストのフィリップ・ヒルシュホルンです。この人はラトビアの生まれで1967年のエリザベート王妃国際音楽コンクールでの優勝を皮切りに国際的に活躍、また後進の指導にも当たりました。しかし脳腫瘍により1996年にこの世を去り、享年50歳でまだまだこれからという時だったでしょう。ちなみに67年のエリザベートでは出場者の中にギドン・クレーメルがいて優勝候補と目されていたのですが、結果は第3位でした。今やクラシック音楽界の大御所ともなっているクレーメルを抑えての優勝ということで、その時のヒルシュホルンがどれだけの稀有な音楽家だったかということが分かるのではないでしょうか。ちなみにクレーメルが優勝を逃したのには、コンクールで演奏したエルガーのヴァイオリン協奏曲がオーケストラと指揮者の無理解のためにあまり映えなかった(そもそもコンクールで映えるかどうかは……)からという噂もあるのですが、はてさて真相はどうやら。個人的にはクレーメルにエルガーのちゃんとした録音を残して欲しいと切に願っています。
 キャリアの盛りを迎えようという時の突然の死というのは、悲劇的な最期を遂げたとして色眼鏡で見られてしまいそうですが、ヒルシュホルンの場合はそのような色眼鏡に誑かされるまでもなく一聴しただけでその天才を窺い知ることができます。例に漏れず、またこの人の場合は後進の指導に注力していたこともあり、録音の数は多くありません。しかし残されたものはこれまた例に漏れず珠玉の名演奏の数々となっています。
 私が一番最初に聴いたのはジェミニアーニのヴァイオリンソナタでした。「ジェミニアーニって誰?」という人もいるでしょうがそれは置いといて(ジェミニアーニはイタリアバロックの作曲家で凄腕のヴァイオリニスト)、冒頭から何と物悲しい音色でしょうか。それでいてドイツ物のようには決してズブズブと重苦しくならない。小さな胸にちゃんと抱えられるだけの悲哀を大事に磨いたようなくすんだ輝きが備わっており、そこには光と闇の対比がしっかりと色付いています。この演奏だけで完璧に私の心は持って行かれました。
 そしてエリザベート王妃国際コンクールで錚々たるメンツの審査員団(オイストラフ、メニューイン、フランチェスカッティ、シゲティ、グリュミオーなど)を唸らせた、まさにそのパガニーニのヴァイオリン協奏曲第1番のライブ録音は圧巻です。「パガニーニの再来」と言われるのも納得の怪演で、もはや悪魔に魂を売ったと言われても信じてしまうレベルでしょう。天衣無縫に操られるテクニックに裏打ちされた、淀みのない音楽の運び。透明感あるノーブルな音色が、時にあちらこちらへ激しく駆け回ったかと思えば、ある所では濃度の高い連綿とした歌を聴かせる。洒落た表情を見せることもありまさに七変化、この演奏で初めてこの曲が面白く感じられました。第1楽章カデンツァなんて本当に開いた口が塞がりません。
 ヒルシュホルンの美質がとても良い具合にはまっているなと思わせるのが、1964年のエリザベートのピアノ部門で第3位に入賞したジャン=クロード・ファンデン・エインデンと合わせたルクーのヴァイオリンソナタト長調です。ヒルシュホルンの音は決して骨太とは言えませんが、細身ではあっても飴細工のように伸びやかでかつ芯のしっかりした音がルクーの高貴な抒情美の世界と触れ合う瞬間、この世で最も美しい音楽が花開くのです。これこそ「読んでる暇があったら聴いてくれ!」の筆頭にしてもいい演奏ですが、春のぼんやりとした朝方、小さな蕾がゆっくりと開いていく瞬間だとか、そこから零れ落ちる朝露の煌めき、それか静かな昼下がりの暖かいのにどこか侘しさを運んでくる風や、うたた寝に見るほのかに甘い夢など、聴けばそうしたイメージが泉の如く湧き出てきます。本当に「美しい」ってのはこういうことなんですよね、やっぱり……。

第122回定期演奏会、その2

 数が少ないながらもイザイの演奏は録音として残されているのですが、あのキレのある鮮やかなテクニックと艶やかな音色とを聴けば、彼が当代きっての名演奏家であったことがその片鱗だけでも感じることが出来るはずです。有名な話としては、フランクのヴァイオリンソナタはイザイの結婚祝いに作曲されたもので、またショーソンの詩曲もイザイが初演をしました。聴いてみたかったですねえ、イザイ本人のフランクのヴァイオリンソナタ……。演奏家として多くの作曲家に慕われ信頼されると同時に、彼自身も類まれな作曲家で、彼の残した作品のうちで今日最もよく演奏されるのが6つの『無伴奏ヴァイオリンソナタ』です。連想されるようにバッハの『無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ』を意識したもので、バッハの時代からイザイの時代までの膨大なヴァイオリン音楽を自らの持てる技術を総動員して6曲の中に凝縮してしまおうという、全くもって野心的で恐ろしい作品です。純度の高い結晶の音楽が6曲中に一貫して輝きを放っているのも驚愕ですが、ヴァイオリニストとしての悪魔的な程の技巧が縦横無尽に駆使された怪物であるがゆえに、現代のヴァイオリン弾きにとってはある種のバイブルのような存在となっています。それぞれが当時の偉大なヴァイオリニストに献呈されているのも特徴の一つで、今回演奏される第3番はかのジョルジュ・エネスクに捧げられています。"バラード"という愛称の示す通り、最初は不気味な憂いの調子で始まる唄が次第に狂熱を帯びて燃え上がっていく様が、さながら小説のようです。私なんかはいつもエドガー・アラン・ポーの怪奇小説の世界を思い浮かべてしまうんですけどね。
 チャイコフスキーのヴァイオリン作品は、『ヴァイオリン協奏曲 ニ長調』が前に出過ぎているせいで他になかなかスポットライトが当たらない嫌いもありますが、『憂鬱なセレナーデ』や協奏曲の直前に作られた『ワルツ・スケルツォ』、そして『懐かしい土地の思い出』と名曲が揃い踏みです。本人がヴァイオリンを嗜んでいたかどうか分かりませんが、どれもこの楽器のことをよく理解した書法であるのは感心させられます。「お前、ヴァイオリン弾けもしないのによくこんな上手い曲書けたな!」という感じです。サン=サーンスもそうしたところがありますね。やはり天才の為せる業ということなのでしょうか。今回演奏される『瞑想曲』は元々がヴァイオリン協奏曲の緩徐楽章として作られたものだそうで、後になって他の2曲(『スケルツォ』、『メロディー』)とセットで『懐かしい土地の思い出 Op.42』として発表されました。この『瞑想曲』が曲集の中では頭一つ抜けて有名ですが、曲集全体としてまとめて聴いてみるとまた違った味わいが出てくるのでぜひあと2曲も一緒にして聴いてみて下さい。
 最後はクライスラーで、この人もヴァイオリニスト兼作曲家です。主に演奏会用小品の類いがよく取り上げられてそれによって認知もされているのですが、ヴァイオリン協奏曲や弦楽四重奏曲というちゃんとした(?)作品も残しています。この人の時代には録音技術も(少なくともイザイの頃よりは)進歩を見せており、彼の演奏でモーツァルトやブラームスの協奏曲、ベートーヴェンのヴァイオリンソナタ10曲、そして自作や編曲作品が残されているのは喜ばしい限りです。スペイン近代音楽を支えた作曲家ファリャの歌劇から採られた『スペイン舞曲』も、もちろんクライスラー自身による演奏が残されています。こうした編曲作品の醍醐味は、原曲をどういう風に味付けしたものか、それを楽しむことです。ギャップや違和感も当然のことながら存在するでしょうが、原曲と違った意味でのハッとするような美質が新たに響いてくることもあって、そこが恐ろしいところでもあり同時に心躍らされる部分なのです。クライスラーの編曲は往々にして、それが最初からヴァイオリンのために作られた曲なのではないかと錯覚するくらい巧みなもので、様々な演奏会で取り上げられる機会が多いのも納得の出来栄えです。だからより一層、原曲と比べて聴いてみることの面白さが際立ってくるというものでしょう。

《私の好きな録音⑩》
 上述のイザイの録音ですが、彼の弾いたメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲(第3楽章のみ)がひどく好きでついつい何度も聴き返してしまう録音です。偉大な演奏記録というのはその通りなのですが、それ以上に艶と伸びのある音色から紡ぎ出される色気、そして縛るものの一切ない自由自在な感がたまらないです。まあ演奏の完成度としては正直、伴奏とはズレまくりだし、弾く箇所を間違えるしで自信は持てないんですけれども、ヴァイオリンだけで言えばまさしく上物です。
 同様に歴史的録音という文脈で言えば、ブゾーニの演奏するリストの『鬼火』なんかもかなり好きです。始めて聴いた時は本当に腰を抜かすくらいに上手すぎるので驚きました。ただこれはスタジオ録音とかそういう類いのものではなく、恐らくはピアノロールの記録なので、どこまでがブゾーニ本人の演奏なのかは疑問を持たねばならないとは思いますが、それでも大ピアニストでもあった彼の目指す『鬼火』がこういうものだったのかという理解は出来ます。そういう耳で聴けば、確かに彼のピアノ作品で求められるような厳めしくソリッドな趣きを感じられなくもないですね。

 そういえば、京大オケが今度の演奏会でブラームスの交響曲第1番をやるらしく、そこの知り合いから「何かお前の好きな録音あったら教えて」と尋ねられました。超のつく名曲であるだけに録音は膨大、解釈も様々、なるほど触れるものが少しでも多ければ演奏の一助となることでしょう。「これはなかなか難しい質問だ……!」と悩んであげられれば親切だったのかも知れませんが、しかし私の場合は生憎に、そしてある意味で幸運なことに、この曲に関しておすすめできるものが決まってしまっているのです。その人へのお返事は1分を要さず、「フルトヴェングラーとベルリンフィルの1952年の録音がいいよ」と迷いなく返しました。佐渡裕とかバーンスタインとか小澤征爾とか、現代の定番を推してあげるべきところを、やはり一昔前の録音を薦めるあたりは自分でも仕方がないと思っています。フルトヴェングラーにしたところで見る人が見れば「あー、またか」とありきたりな選択なのでしょうが、しかしそんな事を言われたら自分は本心から、あれを凌ぐだけの録音は残されているだろうかと疑問を抱かずにはいられません。ここでスピーカーの向こうで指揮台に立っているフルトヴェングラーは悪魔です。「神」ではなく、「悪魔」です。一聴しただけで分かる圧倒的で絶対的なもの、有無を言わせず聴く者をその場に磔にする力は魔性以外の何物でもありません。しかしどうやらこの悪魔は下劣なそれというよりも、精神的に高貴で誇り高い悪魔であるようです。人々を熱狂と陶酔の渦中へ誘い、心をかき乱し涙を呼ぶことさえ可能で、音楽の神様が携えるあらゆる権能を一手に簒奪して我々の前に広げてみせます。ゆえに、悪魔の行為はその瞬間において真実です。神の見せるどこまでも清廉なそれではなく、淀みの中から掬い上げてきたような不純でいかがわしい、ないまぜの真実であるからこそ、心がそれを求めてしまうのです。きれいなブラームスとか、ちょっと聴きたくないですからね。

第122回定期演奏会、特集その1

 京都大学音楽研究会の第122回定期演奏会があります。詳細は以下の通りです。

【日時】 6月3日(金) 開演18時30分(開場18時00分)
【会場】 京都府民ホール ALTI (http://www.alti.org/)
【入場料】 500円(当日券あり)

1. エチュード Op.10-6 変ホ短調 / ショパン
  ショパンのエチュードによる練習曲第13番 変ホ短調 Op.10-6より 左手のための / ゴドフスキー
  エチュード Op.10-12 ハ短調「革命」 / ショパン
  ショパンのエチュードによる練習曲第22番 嬰ハ短調 Op.10-12より 左手のための / ゴドフスキー
  ・・・・・・Pf.安岡佑樹(工・修1)

2. 無伴奏ヴァイオリンソナタ第3番 ニ短調 / イザイ
  『懐かしい土地の思い出』より 瞑想曲 / チャイコフスキー
  歌劇『はかなき人生』より スペイン舞曲 / ファリャ=クライスラー
  ・・・・・・Vn.西村希(工・2) Pf.佐藤馨(文・3)

3. 平均律クラヴィーア曲集第1巻第21番 変ロ長調 BWV866 / J.S.バッハ
  12の練習曲 Op.10-5 「黒鍵」 / ショパン
  バラード第3番 変イ長調 Op.47 / ショパン
  ・・・・・・Pf.長谷川聡一朗(工・修1)

4. Vier Doppelchörige Gesänge(4つの二重合唱曲)Op.141 より
  1. An die Sterne  2. Ungewisses Licht / シューマン
  ・・・・・・音楽研究会ハイマート合唱団

5. ピアノソナタ第3番 ヘ短調 Op.5 / ブラームス
  ・・・・・・Pf.下野宗大(総人・3)

 お時間よろしければ是非お越し下さい!

~~~~

 さて、定演特集は毎回立てている企画ということで、今回もどうぞお付き合いお願いします。
 ショパンの練習曲といえば、ピアノ学習者にとっては欠かせない大事な作品で、単なる手指のエクササイズとしてだけでなく演奏会の主要なレパートリーとしても頻出の最重要作品と言っても過言ではないかも知れません。ショパンの作った練習曲はピアノ演奏における高度な技巧と豊潤な音楽性が高い次元で融合した、それまでの練習曲とは一線を画す曲集です。これ以前は情緒に乏しく指の運動がメインのものが多かったですが、ショパン以後は高い音楽的内容を伴う小曲集とでも呼べるようなものに様変わりしたのです。実際、「練習曲」というタイトルも手指の技術ではなく音楽性を養う「練習」だという話もありますね。
 当時の社交界でショパンはピアニストとしてすでに知られていましたが、同じく持て囃されていた(主に女性から)のがフランツ・リストです。リストは初見で何でも弾きこなすことができたそうですが、このOp.10だけは初見で弾き果せることが出来ず、数週間ほどパリから雲隠れしてずっとこの曲集を練習していたという逸話があります。そしてパリに戻って来てショパンに弾いて聴かせたOp.10の出来栄えにショパンは感動し、「僕も自分のエチュードをリストみたいに弾きこなしてみたいものだ」と語ったそうです。Op.10はリストに献呈されています。
 リストの練習曲もショパンのそれと同じくらいに高度な技術と音楽性を要求するもので、やはりピアニストに欠くことの出来ない素晴らしい作品ですが、初期に書かれたものはあまり魅力的とは言えず、師匠であるツェルニーのそれからまだ脱し切れていません。よく演奏されるものはほとんどがショパンの練習曲が登場して以降のものであり、リストもいかにショパンの練習曲集に影響されたかが分かります。
 そして時は流れ19世紀終わり頃、このただでさえ難しい練習曲をもとにしてさらに難しい練習曲を53個も作ったトンデモ作曲家がゴドフスキーです。この人も作曲家兼ピアニストとして活動しており、ピアノ作品史上の難技巧が盛り込まれたものとなっています。しかしさすがにピアニストだけあって、その編曲は技術的に相当難しいながらもギリギリ合理的な仕上がりを見せています。また原曲にはない副旋律を入れたり、多声部的な処理を施したりと、その作曲家としての一級の腕前には目から鱗です。左手だけのための編曲が多いのも特徴で、時たま右手を故障した演奏家が取り上げているのを見掛けます。
 今回の定期演奏会では原曲とゴドフスキー編曲版とを聴き比べて、両者それぞれの魅力を発見・再発見してもらいたいと思います。そしてピアノという楽器の可能性にも改めて目を向けて頂けるのではないかと期待しているところです。

《私の好きな録音⑨》
 ショパンの練習曲は自分の中では必修科目的な意味合いが強かったので、そこまで好きという訳でもなかったのですが、こういうものに限って思いがけず素晴らしい録音に出会って曲の魅力を再認識させられて、それまでの自分の考えを悔い改めることになります。私にとってのそれは、バックハウスによる1928年の録音でした。ベートーヴェン弾きとしてのイメージばかりが先行していたせいで、「この人ショパンなんて弾くのか!」とアホみたいな文句がまず最初に出て来てしまったのですが、いざ聴いてみると技巧の冴えもさることながら、キリリと引き締まったリリカルな演奏に心の全てを持っていかれる思いでした。鼻に着くような「紋切り型ロマンチック」の演奏に飽き飽きしていたこともあって、バックハウスの描き出すストレートで整然としたショパン像に一層度肝を抜かれたのかも知れませんが、だからと言ってこの録音の価値は私にとって変わらずかけがえのないものです。活気のある曲では土台のしっかりした快刀乱麻の快演を見せる一方で、Op.10-3「別れの歌」やOp.10-6で見せる真摯で深々とした表現にはショパンの真情を覗き見るような独白を感じずにはいられません。
 バックハウスに出会うより前に好んで聴いていたのは、ペライアによる録音でした。非常に清冽なショパンといった印象で、甘美さが飽和することなく、また華やかさが視界を遮ることもなく、絶好の天気の下で心地良い小旅行を楽しんでいるような気分に浸りながら聴いていました。「天性のリリシスト」などと呼ばれることもあるようですが、ただ単にリリシズムに溢れるだけではなくて、曲全体を見通せるだけの抜群のバランス感覚という土壌があって初めて、このリリシズムが生きてくるんだということは聴く度に思うことです。ただ欲を言ってしまえば、曲によってはある種の突き抜けた表現や過剰なインプレッションを見せて欲しいと感じることが少なからずあります。この人は手の故障で一時は演奏活動から退いていたのですが、復帰後は故障中に熱心に研究していたバッハ作品に精力的に取り組み、一連の名高いバッハ録音を生み出しました。ゴールドベルク変奏曲とかブランデンブルク協奏曲第5番なんかは好きでよく聴いたものでした。ショパンの練習曲の録音も復帰後のものですが、ブランクがあったとは微塵も感じられない鮮やかな演奏であるのは本当に驚きです。

錦鱗館コンサートのお知らせ

 お久しぶりです。サークルの催し物がないと更新がなかなかできませんが、毎日変わらず活動は続けているのでご心配無く。今年度の新入生の中には「ブログを読んで来ました!」という人が結構いて、初めのうちにわりと良いペースで記事を書いていたのが功を奏したのかと、改めてネットを介した情報発信の影響力の強さを思い知りました。あんまり更新されていないとちゃんと活動しているのか疑問を持つ人も多かろうということで、できるだけ間が空かないように記事を書いていこうと思っているのですが……、それはそれで難しいものです。
 話は変わってコンサートのお知らせです。5月22日(日)の14時から、吉田山にある錦鱗館(http://kinrinkan.cocolog-nifty.com/)という小さなホールで音研器楽部のメンバーによるミニコンサートがあります。プログラムは以下の予定です。

1. 『ゼルダの伝説 ~時のオカリナ~』 BGMメドレー
 (Fl.村山陽奈子 Vn.橋本真友里 Vn.西村希 Va.橋本莉沙 Vc.山上昂太郎)

2. プロヴァンスの風景 / モーリス
  アヴェ・マリア / カッチーニ(Sax.高橋健 Pf.柳原文香)

3. 水の精と不謹慎な牧神 / セヴラック(Pf.藤原圭哉)

4. アダージョ ロ短調 K.540 / モーツァルト
  アヴェ・ヴェルム・コルプス K.618 / モーツァルト=リスト(Pf.佐藤馨)

5. 即興曲変ト長調 Op.90-3 / シューベルト(Pf.松永修)

6. 無伴奏ヴァイオリンソナタ第3番 ニ短調 / イザイ(Vn.西村希)

7. 平均律クラヴィーア曲集第1巻 第21番 変ロ長調 BWV.866 / J.S.バッハ
  練習曲第5番『黒鍵』変ト長調 Op.10-5 / ショパン
  バラード第3番 変イ長調 Op.47 / ショパン(Pf.長谷川聡一朗)

8. ピアノ五重奏曲第2番 イ長調 Op.81 より 第1楽章 / ドヴォルザーク
 (Vn.吉貞祥護 Vn.橋本真友里 Va.橋本莉沙 Vc.山上昂太郎 Pf.松永修)

 入場無料の肩肘張らないコンサートですので、軽い気分でふらりとお立ち寄り頂ければ幸いです。思いの外、色々なソロもアンサンブルも楽しめる内容になっています。多少場所が分かりにくいかも知れませんが、「五山の送り火」で有名な大文字山を一望できる美しいお庭を持つサロンですので、音楽だけでなく景色も味わって頂きたいなあと思います。

《私の好きな録音⑧》
 ハロルド・バウアーは初めのうちヴァイオリニストを志していたのですが、かのパデレフスキの助言を受けてピアニストに転向したという一風変わったキャリアの持ち主です。一体どうして私はこのお世辞にも有名でないピアニストの名を知っているのか、今となっては真相は闇の中(自分もよく覚えていない)ですが、この演奏家との出会いは本物の幸運に数えていいものだと思っています。
 彼の演奏は華やかでもなければ親しみやすいものでもありません。聴く度に「玄人向きの演奏だなあ」と思わずにはいられません。しかしかと言って全くの無風流や没個性というのでもないのです。むしろその逆で、個性を越えたところから音楽それ自体が語りかけてくるような不思議な感覚に襲われるのです。これはなかなか味わえない感覚です。
 彼の鳴らす芸術は、鍵盤の限界よりもっと下の方、音符よりもさらに深く沈みこんだ所で鳴り響いているという印象を持ちます。幾つものピアノ弦で形作られた、聴衆を安易に魅了する魔法の防壁(それは油断したら低俗な手品に成り果てる)を難なく、しかし厳かに通り抜けた所にバウアーは自らの魂を共鳴させているようです。だから聴く側は、心よりもさらに一層深いところから静かに揺さぶられていることに気が付きます。自分の中にある、心よりももっと人間としての原初の部分が音楽に「耳を傾ける」ようになる、これは非常に幸福な瞬間です。
 ブラームスのピアノソナタ第3番は古今のピアニストがこぞって取り上げる名品であるだけに、リヒテルが「わざわざ自分が弾かなくても……」と言ったのはまさにその通りです。ここでのバウアーは質実剛健で歪みのない音楽を立ち上がらせており、また全体がとても良いプロポーションで貫かれています。私がこの曲を聴いて飽きが来なかったのはバウアーが初めてでした。5楽章もあるだけに形式としてのまとまりが見失われそうになることは色んな演奏を聴いていてしばしばですが、バウアーの語り口は雄弁かつ説得力に富むもので、他には見られない個性的な表現があるにも関わらず概観すると優しくシンプルで自然体になっているのです。これはもはや「音楽がそうしろと言った」のだと私は思っています。
 バウアーの幻想的な側面が表れたシューマンの幻想小曲集 Op.12はこの曲の最も偉大な演奏の一つです。第1曲「夕べに」、その初めの1音が鳴った瞬間に私達はもう逃れることの叶わぬ身となります。かつてこの曲がこんなに現実感のかき消えたトーンで、まるで夢でも見ているかのように響いたことがあったでしょうか。夢見心地で他に何も要らなくなるような満ち足りた至福の時間、しかし時折さっと影を落とす不安の陰影は、私達を幻想の夜へと誘う手招きであり、同時に浮かんでは消える夢への切なさでもあります。バウアーのテンポとリズムはひどく危うい加減でギリギリのバランスを保っており、それが我々を現実の地平から浮き上がらせ、そして私達は一度地面から足を離してしまえば(「飛翔」)あとは流れに抗うことも出来ずに彼の音楽の幻覚に身を委ねる外は無いのでしょう。
 彼の録音にはピアノロールのものや、あとは唯一の映像記録であるジンバリストとの『クロイツェル・ソナタ』の第2楽章などもあります。以前は全て集めようとするとかなりの根気と努力を要しましたが、ソロ録音全集として集成されたCDセットがようやく発売されて、それからyoutubeにもいくつかの演奏が上がっています。ベートーヴェンのピアノソナタ、ショパンやリストの小品、自身の編曲によるバッハ作品等々、彼の演奏は一級品として聴かれ続ける価値のあるものばかりですから、ぜひご一聴して頂きたいです。
 しかしヘスといいソロモンといいカーゾンといい、イギリスには私の好きな名匠がたくさんいて嬉しいです。テレンス・ジャッドもイギリスの人とくれば、これは何か精神性のレベルで共感を受けるものがあるのかも知れません。
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。