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第122回定期演奏会、その2

 数が少ないながらもイザイの演奏は録音として残されているのですが、あのキレのある鮮やかなテクニックと艶やかな音色とを聴けば、彼が当代きっての名演奏家であったことがその片鱗だけでも感じることが出来るはずです。有名な話としては、フランクのヴァイオリンソナタはイザイの結婚祝いに作曲されたもので、またショーソンの詩曲もイザイが初演をしました。聴いてみたかったですねえ、イザイ本人のフランクのヴァイオリンソナタ……。演奏家として多くの作曲家に慕われ信頼されると同時に、彼自身も類まれな作曲家で、彼の残した作品のうちで今日最もよく演奏されるのが6つの『無伴奏ヴァイオリンソナタ』です。連想されるようにバッハの『無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ』を意識したもので、バッハの時代からイザイの時代までの膨大なヴァイオリン音楽を自らの持てる技術を総動員して6曲の中に凝縮してしまおうという、全くもって野心的で恐ろしい作品です。純度の高い結晶の音楽が6曲中に一貫して輝きを放っているのも驚愕ですが、ヴァイオリニストとしての悪魔的な程の技巧が縦横無尽に駆使された怪物であるがゆえに、現代のヴァイオリン弾きにとってはある種のバイブルのような存在となっています。それぞれが当時の偉大なヴァイオリニストに献呈されているのも特徴の一つで、今回演奏される第3番はかのジョルジュ・エネスクに捧げられています。"バラード"という愛称の示す通り、最初は不気味な憂いの調子で始まる唄が次第に狂熱を帯びて燃え上がっていく様が、さながら小説のようです。私なんかはいつもエドガー・アラン・ポーの怪奇小説の世界を思い浮かべてしまうんですけどね。
 チャイコフスキーのヴァイオリン作品は、『ヴァイオリン協奏曲 ニ長調』が前に出過ぎているせいで他になかなかスポットライトが当たらない嫌いもありますが、『憂鬱なセレナーデ』や協奏曲の直前に作られた『ワルツ・スケルツォ』、そして『懐かしい土地の思い出』と名曲が揃い踏みです。本人がヴァイオリンを嗜んでいたかどうか分かりませんが、どれもこの楽器のことをよく理解した書法であるのは感心させられます。「お前、ヴァイオリン弾けもしないのによくこんな上手い曲書けたな!」という感じです。サン=サーンスもそうしたところがありますね。やはり天才の為せる業ということなのでしょうか。今回演奏される『瞑想曲』は元々がヴァイオリン協奏曲の緩徐楽章として作られたものだそうで、後になって他の2曲(『スケルツォ』、『メロディー』)とセットで『懐かしい土地の思い出 Op.42』として発表されました。この『瞑想曲』が曲集の中では頭一つ抜けて有名ですが、曲集全体としてまとめて聴いてみるとまた違った味わいが出てくるのでぜひあと2曲も一緒にして聴いてみて下さい。
 最後はクライスラーで、この人もヴァイオリニスト兼作曲家です。主に演奏会用小品の類いがよく取り上げられてそれによって認知もされているのですが、ヴァイオリン協奏曲や弦楽四重奏曲というちゃんとした(?)作品も残しています。この人の時代には録音技術も(少なくともイザイの頃よりは)進歩を見せており、彼の演奏でモーツァルトやブラームスの協奏曲、ベートーヴェンのヴァイオリンソナタ10曲、そして自作や編曲作品が残されているのは喜ばしい限りです。スペイン近代音楽を支えた作曲家ファリャの歌劇から採られた『スペイン舞曲』も、もちろんクライスラー自身による演奏が残されています。こうした編曲作品の醍醐味は、原曲をどういう風に味付けしたものか、それを楽しむことです。ギャップや違和感も当然のことながら存在するでしょうが、原曲と違った意味でのハッとするような美質が新たに響いてくることもあって、そこが恐ろしいところでもあり同時に心躍らされる部分なのです。クライスラーの編曲は往々にして、それが最初からヴァイオリンのために作られた曲なのではないかと錯覚するくらい巧みなもので、様々な演奏会で取り上げられる機会が多いのも納得の出来栄えです。だからより一層、原曲と比べて聴いてみることの面白さが際立ってくるというものでしょう。

《私の好きな録音⑩》
 上述のイザイの録音ですが、彼の弾いたメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲(第3楽章のみ)がひどく好きでついつい何度も聴き返してしまう録音です。偉大な演奏記録というのはその通りなのですが、それ以上に艶と伸びのある音色から紡ぎ出される色気、そして縛るものの一切ない自由自在な感がたまらないです。まあ演奏の完成度としては正直、伴奏とはズレまくりだし、弾く箇所を間違えるしで自信は持てないんですけれども、ヴァイオリンだけで言えばまさしく上物です。
 同様に歴史的録音という文脈で言えば、ブゾーニの演奏するリストの『鬼火』なんかもかなり好きです。始めて聴いた時は本当に腰を抜かすくらいに上手すぎるので驚きました。ただこれはスタジオ録音とかそういう類いのものではなく、恐らくはピアノロールの記録なので、どこまでがブゾーニ本人の演奏なのかは疑問を持たねばならないとは思いますが、それでも大ピアニストでもあった彼の目指す『鬼火』がこういうものだったのかという理解は出来ます。そういう耳で聴けば、確かに彼のピアノ作品で求められるような厳めしくソリッドな趣きを感じられなくもないですね。

 そういえば、京大オケが今度の演奏会でブラームスの交響曲第1番をやるらしく、そこの知り合いから「何かお前の好きな録音あったら教えて」と尋ねられました。超のつく名曲であるだけに録音は膨大、解釈も様々、なるほど触れるものが少しでも多ければ演奏の一助となることでしょう。「これはなかなか難しい質問だ……!」と悩んであげられれば親切だったのかも知れませんが、しかし私の場合は生憎に、そしてある意味で幸運なことに、この曲に関しておすすめできるものが決まってしまっているのです。その人へのお返事は1分を要さず、「フルトヴェングラーとベルリンフィルの1952年の録音がいいよ」と迷いなく返しました。佐渡裕とかバーンスタインとか小澤征爾とか、現代の定番を推してあげるべきところを、やはり一昔前の録音を薦めるあたりは自分でも仕方がないと思っています。フルトヴェングラーにしたところで見る人が見れば「あー、またか」とありきたりな選択なのでしょうが、しかしそんな事を言われたら自分は本心から、あれを凌ぐだけの録音は残されているだろうかと疑問を抱かずにはいられません。ここでスピーカーの向こうで指揮台に立っているフルトヴェングラーは悪魔です。「神」ではなく、「悪魔」です。一聴しただけで分かる圧倒的で絶対的なもの、有無を言わせず聴く者をその場に磔にする力は魔性以外の何物でもありません。しかしどうやらこの悪魔は下劣なそれというよりも、精神的に高貴で誇り高い悪魔であるようです。人々を熱狂と陶酔の渦中へ誘い、心をかき乱し涙を呼ぶことさえ可能で、音楽の神様が携えるあらゆる権能を一手に簒奪して我々の前に広げてみせます。ゆえに、悪魔の行為はその瞬間において真実です。神の見せるどこまでも清廉なそれではなく、淀みの中から掬い上げてきたような不純でいかがわしい、ないまぜの真実であるからこそ、心がそれを求めてしまうのです。きれいなブラームスとか、ちょっと聴きたくないですからね。
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再び【Ysayeさん】※です!

e-255ご無沙汰しております(#^.^#)e-255

蒸し暑い日が続き,体力消耗が早まっていますが...(^_^;)i-202
【Ysayeさん】の記事を読み,ちょと元気が出ました(v-161)www

KU桶さんが【ブラe-180】をされるとは興味深いです---。

そう言えば,【Ysayeさん】=“Heykensさんの師匠”としても知られており,
(Ysayeさんの)弟子が,どの様な音楽家さんになったのかも
興味深いですヽ(*´∀`)ノi-185
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